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第二節 『ジャンプ』創世記 〜10年遅れのハンデ〜

 集英社から創刊される少年週刊誌の動きが表面化されたのは、1968年(昭和43年)の正月であった。ただし週刊誌ともなると、その創刊号には慎重を期する必要が絶対であった。なぜならば、週刊誌は利潤があがれば部数が上昇していくほど利益は倍増するかもしれないが、もしそうならなければ、単なる金食い虫になりかねないからである。

 そこで『ジャンプ』は創刊はするものの、週刊ではなく、隔週刊で発行されることになった。つまり軌道にのるまで様子を見ようというのである。またいかに別会社になったとはいえ、同一資本の集英社から週刊誌が出ることは、『サンデー』を抱える小学館にとっては危険に感じられたのかもしれない。

 とりあえず隔週刊で発行されることになった『ジャンプ』だが、後発誌の悲しさゆえ、手塚治虫、ちばてつやといった巨匠と呼ばれるマンガ家に描いてもらうことは不可能であった。10年遅れのハンデはとても大きかったのである。そこで『ジャンプ』は大胆な路線変更をとることにした。巨匠作家をあきらめ、新人の大幅起用を図ったのである。

 『少年ブック』からの実績を持つ梅本さちお、望月三起也などといった中堅作家を軸に据え、あとは思い切った新人起用に活路を見出すという、一見すると無謀ともいえる新雑誌創刊であったが、少ない予算と巨匠作家の隙間ないスケジュールにはとうてい潜り込めないという10年遅れのハンデは、いかんともしがたかった。

 そのかわり『ジャンプ』は他の週刊マンガ誌との差別化を図ろうとした。第一に懸賞、予告、目次などといった必要最低限以外のページはすべてマンガにしようとしたことである。当時はマンガの他に特集やスポーツ記事に全体の4分の1を割いているのが普通であったが、『ジャンプ』はあらゆる情報をマンガで表現しようとしたのである。総ページにおいても『マガジン』『サンデー』よりもぶ厚く、マンガページだけで比べれば30%も多い割合であった。

 第二に、定価については既存誌が60円から70円に値上げをする時期と重なったが、あえてそれより高い90円に設定した。安いほうが売りやすいのは当たり前であるから、これも冒険であった。この値段設定について西村はこう語っている。

 月二回刊という当時としてはなじみの薄い発行形態、先輩週刊誌に10年遅れているハンデを考えると、どうしてもスタートは低部数になる読みがあった。かといって長い期間赤字をつづけたくはなかった。長すぎる赤字期間は、雑誌の存亡にかかわってくる。創刊したわ、赤字がつづき廃刊では情けないし、読者にも申し開きできない。

 損益分岐点は、なるべく創刊から早い時期に到達可能な、低部数にしたかった。そのためには、原価がらみで定価アップもやむなしと割り切らざるを得なかった。もし順調に部数が伸びたら、その時定価を下げればよいだろう。

〜中略〜

 定価は高いが、その分ページの多い雑誌になる。どちらを選ぶかは読者の自由だが、中身が面白ければ読みごたえのある方を選ばせる自信はあった。〔西村繁男、「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」;P67〕

 実際『ジャンプ』は軌道に乗ってから、他誌より10円安い定価に切り替え、この流れは現在にも引き継がれている。

 第三に、すべての掲載マンガを読切形式にしたことである。これも連載を任せられるマンガ家のめぼしがたたないための、背水の陣であった。これならばいつ巨匠作家が連載をOKしてくれても、掲載ページがないという現象が起こらなく、円滑に作品の入れ替えが可能になる。徐々に読切を減らし、連載マンガを増やしていく作戦であった。また、新人を育てる上でも好都合であり、もしかしたら新人のヒットも期待できるわけである。

 創刊当時からの連載予定であるマンガについても、従来の連載の形式をとるが、その号その号ごとに「巻」をつけ、読切という印象をあたえる。そうすることによって読者に「ぜんぶ読切」という新しいスタイルの雑誌が出たと思わせ、期待感を煽ったのである。『ジャンプ』が創刊されたときのキャッチコピーは「ぜんぶ漫画、ぜんぶ読切、新しい漫画新幹線」であった(図8)。

図8 「ぜんぶ読切」のジャンプ創刊号

『ジャンプ』1993年30号より 

 考えようによっては、言葉のマジックでその特徴のつじつまを合わせているようにも感じるが、1968年(昭和43年)7月11日、とうとう怪物雑誌『少年ジャンプ』は創刊されたのである。

 

 

 

 

 

  

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